真珠院第22世住職である秀快が即身仏となり、石室にご入定された入定堂です。
柏崎市の指定文化財に登録されています。
誰でもご自由にお参りできます。車でお堂まで上がることもできますので、お気軽にお参りください。
秀快上人の歴史
享保3(1718)年
新潟県柏崎市北鯖石に竹田久左エ門の長男として生まれました。9歳で出家し真珠院第20世秀清の弟子となり、僧名を「泰音秀快」と改め、修業に励みました。
享保18(1733)年
真言宗の豊山派総本山長谷寺(奈良)に留学して大学僧に就任するなど精励に努めました。
宝暦6(1756)年
帰郷し、真珠院の第22世住職として内外の教化伝導に努めました。
そして50歳で深く入定を決意し、五穀を断って菜食で10年間の修行を行いました。
安永8(1779)年
檀家さんをはじめとした近隣の人々から浄財を集めて、大工の手によって入定堂を立ててもらいました。
安永9(1780)年
3月1日 当院裏山の堂宇の石室に入りました。
秀快上人は20日間もの間、真言を唱え五鈷杵(ごこしょ)をかざし、鈴(れい)を鳴らし続けました。
3月21日 真言宗の宗祖弘法大師の御命日に、御年も同じ享年62歳で御入定されました。
入定堂・石室について
堂宇拝殿の格天井の絵・梵字
岡野町の画家村山致道の作、梵字は胎内市(旧中条町)の名刹、乙宝寺の高僧である瑜伽僧正の書です。
石室内外の壁の『阿字』
石室の内外の壁には大日如来を表す梵字の『阿字』、その下に蓮の花が1つずつ掘ってあります。
秀快上人はこの石室内側の壁に掘られた『阿字』に向かって『阿字観』によって入定に入られました。
秀快上人と石室、お堂の外にある石碑の『阿字』は、すべて弘法大師空海が入定した高野山と、かつて修学を積んだ長谷寺のある南の方角を向いています。
これらの文化財は、有徳高僧の入定という日本仏教の到着した極点を物語る証拠として、学問的にも信仰上にも貴重なものと云われています。
※ 写真掲載の秀快上人は、平成3年に御開帳された時のものです。現在は石室に御安置されており、拝顔してのお参りはできません。
入定堂外観 360度画像(動かして見られます)
入定堂内観 360度画像(動かして見られます)